スグルのメモ帳(私って何―自己と社会を知りたい―)

自分の知識を使いコラムを通して、自分と社会を知っていくためのメモ帳です。

文系/理系に関する雑感③ー文系でも数学から逃れることが難しくなっている

私の母校の高校で、文系の3年次は国語、社会、英語科目だけ(一応数学探究はあったが履修者は少なく、大半が英語探求を選択履修していた)でカリキュラムが構成されていたが、今では3年次でも化学基礎や数学総合や数学探究が選択科目として設置されている。
文系ならば理科科目や数学科目から逃れることができたのは昔の話で、今は文系でも理科や数学も逃げることが難しくなっている。
これは大学での学びにおいて、自然科学分野や数学など文理融合していくために必要なことであるし、リメディアル科目(その科目の基礎力を補填と高校の補習を兼ねた科目)を行う大学の負担を減らすことができるかもしれない。

ただ一方、数の概念が分からない、単位の大きさが分からないなどの発達的な要因で数学が苦にしている人からすると苦労するだろうなと予想される。数学が苦手ゆえに公式の暗記の当てはめ、問題集の問題と解答を暗記して乗り越えようとするので数学を履修させることが、ただちに期待する数学的な能力を伸ばすことと結びつくわけではない。

さらに数学は数式を用いて、物事を推論を立てたり、変化していくことの予想や目途を立てたりすることで私たちの生活実感を理解できることを期待しているが、数学を使うことでかえって生活実感とかけ離れてしまい、実感の理解を妨げる可能性がある。
下記の記事(リンク)参照
interdisciplinary.hateblo.jp

数学が不得手な人によって、抽象的な理論を使うことがかえって実感が分からず、ますます数学が不得手になる危険性がある。数学の抽象的理論の課題を理解せず、ただ数学科目の時間数を増やし必修したり、大学入試の必須化しても期待している数学の能力も向上しないし、ますます生活実感の中で数学がかけ離れたものであるという認識は変わることはない。

理科も生活技術と人間生活という科目で生物、化学、物理、地学の4つをそれぞれ8つの単元に絞った内容があるが、理科教育は充分にたりないだろう。
それでも生物、化学、物理、地学をそれぞれ履修してほしいのが本音だろう。
文系でも生物基礎のほかに化学基礎または地学基礎を履修する構成になっていることが増えてきた。
文系でも生命倫理環境学で生物学の力を使うし、地理学は地学領域と隣接している箇所も多く、文系でも理系科目を学ぶべきである。ただ、高校の理科(生活技術と人間生活、生物基礎など)で医学や薬学や疑似科学を見抜くことができるのか。
とある社会学者が福島の原子力発電所から出る処理水を科学的な知見を無視していると批判があるが、高校までの理科科目だけでそれを判断することができるのかと言われたら難しいだろう。
高校までの理科の中で可能な限りの範囲で知識の継承を行っていくことが求められるが、それにも限りがある。
講談社ブルーバックスのような理数科目に強い新書などを自力で読み込むことが必要だが、細分化された個人の行動の中で理科を基底に置く人はそう多くない。
高校までの理科も大半は忘却してしまうのが現実であり、いくら高校文系が理系科目の科目を増やしたり、大学入試必須科目にしてもそれだけ理科の知見を高められるかは不透明である。

文系でも理科科目、数学科目を履修しなければならず、かつてのように理数科目から逃げることができなくなっている。果たして、文系でも理数科目を履修する科目が増えることで文系の出身者がどこまで理数の知識を使うことができるのか。ネットの数学嫌いだから文系を選んだ、理数ができない文系などの文系の偏見を払拭できるのか。その答えは数年後明らかになるだろう。

追記:あくまでも私の出身校(石川県の偏差値が高くない高校)と石川県の偏差値が高くない高校の教育課程を見ていたら、文系でも数学を履修しなければならないことに驚いたという主観的な感想とそこから思ったことを書いているだけに過ぎないです。その他の文系・理系、高校の教育課程事情はあまり分かりませんので、ご了承ください。

虎ファンの道頓堀ダイブと「予言の自己成就」

日本のプロ野球セ・リーグ阪神タイガースが優勝した。
阪神優勝というめでたいニュースの裏で阪神ファンが道頓堀にダイブしたニュースが流れた。

www.sankei.com

阪神が優勝したときのおなじみの光景として映像が流れてくる道頓堀ダイブ
どうして人は、自分のイデンティティに基づき、行動してしまうのだろうか。
今回で言うならば、タイガースファンならば優勝したとき道頓堀にダイブしなければいけない、したいと思うのはなんでだろうか。
もちろん全ての人が自分のアイデンティティに基づき、行動しているわけではない。
法律による禁止行為や警察の注意喚起にもとづき行動を抑制している人が多いのは前提であるが、人はなぜ自分のアイデンティティに基づき行動してしまうのか。

社会学に「予言の自己成就」という考え方がある。今回で言うならば、タイガースファンが優勝したならば道頓堀に飛び込むことが予想されること、タイガースファンである自分は優勝したならば道頓堀にダイブしなければならないという思い込みがあって、実際に2023年9月14日に阪神タイガースが優勝した状況になったときに、事前の予想や自分の思い込みがその通り現実で起こってしまうことが「予言の自己成就」である。
こうしたタイガースファンならば~こうである思い込みがラベリング化されることで自分の中で「~せねば」という行動を呼び起こしてしまうし、世間もまたファンが行動することを期待してしまうことで、より道頓堀ダイブが現実で起こってしまうのは否定しきれない。

タイガースファンの道頓堀ダイブしたことは報道されて、今もテレビで映像が流れてしまい、ますますメディアの予想や自分の思い込みを強固されてしまい、それを実行してしまう可能性はある。
私は「予言の自己成就」を防止する対策はありませんが、少なくても社会の予想や負のラベリング(スティグマ)があるときに自分の思い込みを疑うことが大切ではないかと考える。
これは個人的対処でしかないが、個々人の行動の集積によってその行動を抑止する地道なことでしかできないし、私も「予言の自己成就」が実現しないように心がけたい。

参考文献
森岡淸志 社会学入門 放送大学教育振興会 2016年

人は自分のアイデンティティに基づく行動についてー虎ファンの道頓堀ダイブと「予言の自己成就」ー

日本のプロ野球セ・リーグ阪神タイガースが優勝した。
阪神優勝というめでたいニュースの裏で阪神ファンが道頓堀にダイブしたニュースが流れた。

www.sankei.com

阪神が優勝したときのおなじみの光景として映像が流れてくる道頓堀ダイブ
どうして人は、自分のイデンティティに基づき、行動してしまうのだろうか。
今回で言うならば、タイガースファンならば優勝したとき道頓堀にダイブしなければいけない、したいと思うのはなんでだろうか。
もちろん全ての人が自分のアイデンティティに基づき、行動しているわけではない。
法律による禁止行為や警察の注意喚起にもとづき行動を抑制している人が多いのは前提であるが、人はなぜ自分のアイデンティティに基づき行動してしまうのか。

社会学に「予言の自己成就」という考え方がある。今回で言うならば、タイガースファンが優勝したならば道頓堀に飛び込むことが予想されること、タイガースファンである自分は優勝したならば道頓堀にダイブしなければならないという思い込みがあって、実際に2023年9月14日に阪神タイガースが優勝した状況になったときに、事前の予想や自分の思い込みがその通り現実で起こってしまうことが「予言の自己成就」である。
こうしたタイガースファンならば~こうである思い込みがラベリング化されることで自分の中で「~せねば」という行動を呼び起こしてしまうし、世間もまたファンが行動することを期待してしまうことで、より道頓堀ダイブが現実で起こってしまうのは否定しきれない。

タイガースファンの道頓堀ダイブしたことは報道されて、今もテレビで映像が流れてしまい、ますますメディアの予想や自分の思い込みを強固されてしまい、それを実行してしまう可能性はある。
私は「予言の自己成就」を防止する対策はありませんが、少なくても社会の予想や負のラベリング(スティグマ)があるときに自分の思い込みを疑うことが大切ではないかと考える。
これは個人的対処でしかないが、個々人の行動の集積によってその行動を抑止する地道なことでしかできないし、私も「予言の自己成就」が実現しないように心がけたい。

参考文献
森岡淸志 社会学入門 放送大学教育振興会 2016年

黒井先生の動画から学んだことーメタ認知とセルフモニタリング機能

黒井先生の動画が更新されてみた。

www.youtube.com

プリンターの不調があったが半年間放置していることをきっかけに動画で機械に強い人にプリンターの直し方を求めた動画である。
黒井先生はADHDの特性によって困りごとを放置しているという。
黒井先生はメタ認知、自分の感情や思考を客観的に捉える力が弱いことを認識している。
黒井先生は自身のメタに関する認知が弱いことによって、自分の行動を客観的に物事を判断できないため、問題が起きても解決するために行動ができない状態が続いているという。
黒井先生は物事を解決に向けて、「セフルモニタリング」、自分の無意識な行動や思考を、観察して課題や抽出をしていく方法を動画内で実践する。
黒井先生がセルフモニタリング、黒井先生は問題全般にねばならない思考、べき思考になってしまい、自分で解決しなければならない、するべきになってしまい、問題を他者に相談できず、自分で解決できないため問題を放置してしまうようだ。
人に頼るのは申し訳ないので、黒井先生を自発的に助けてくれる人をコメントに求めようという結論にいたり、動画を出す。

私のセルフモニタリング機能

私もセルフモニタリング機能が弱く、自分で解決が難しいことがらについて先延ばし癖がある。
そして大学生になるまで自分のことを客観して表現することが苦手であるため、小学校の作文や中学校のダイヤリーを書くことが苦手であった。
大学院の卒業も就活で自分のことが分からず、履歴書を書くことができないくらい自分のことが分からなかったが、年齢を重ねて精神年齢が上がることで自分を客観的に見ることができて、履歴書を埋めることができるようになった。
私はとことん自分が苦手なことにはモチベーションが上がらず、問題を先送りする癖がある。

1つ事例を挙げるならば、書かなければいけない申請書類について、自分のことを書かなければいけないことが大変のと、ボールペンでミスができないため何度も書かなければならないというのが負担と考え先延ばしにしている。

先延ばししている癖があり、その原因を理解しているがなかなか行動に移せずに悩み苦しんでいる。
今も自分の特性に苦悩しているが、私は黒井先生の動画で頑張ってセルフモニタリングをしている姿とその分析して1つの行動を示した姿を見て、やっぱり自分のメタ認知を強くすることは大切だなと思い、その姿に勇気を貰いました。
すぐには自分の特性は変わることが難しいかもしれませんが、少しずつ少しずつ自分を変えていきたいなと思いました。

最後に、ADHDの特性によるメタ認知やセルフモニタリングしている姿とその思考方法を知りたい、学びたい人にはオススメの動画になっているため是非、動画を見てセルフモニタリングを実行してみてください。

24時間テレビに対する私の雑感

8月の末頃、日本テレビ系列では24時間テレビが放送される。
私自身、発達系の障害を持っているし、社会福祉福祉国家に関することに興味あるが、24時間テレビに関心があるかと言われれば興味が無い。
社会科学を勉強してきた者としては、様々な障害を抱えた当事者に関する障害者の困りごとをいかにして、他者に障害に関するリテラシーの向上していくためであったり、普遍的な制度を政策論に落とし込むことができるかに関心はある。ただ24時間テレビを見ていて、障害に関する理解が向上しているのかと言われるとそうではないし、むしろ特定の個人に努力をしていく姿を過剰な演出することによって障害は個人の問題であり、努力で解決するものであるあり、この現実の社会が作り出している障害から目を背けることを懸念はある。
それでも日本テレビの「24時間テレビ」は本来ならば、多くの人々がチャリティーに参加することで障害者理解を深めることが期待されていた。
第1回1978年のテーマは「寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を!」に、募金金額も12億円が集まった。

番組内容の企画自体で私が調べた範囲で目を引いたのは、厚生大臣を武道館に招く、司会の大橋巨泉は「決して豊かではないこういう僕たちの企画に賛成してくれて、あの、募金してくれたとおもうのです。」「福田赳夫総理大臣はじめ政府の方、全政治家の方に、本来はあなた方がやるべきことだと。福祉国家を目指してよい政治していただきたい」と述べていた。*1

70年代の日本は、優生保護法が残されている、障害者の安楽死不妊手術の推奨している、出生前診断による先天的な病気・障害がある胎児の中絶を推進の始まり、脳性マヒ者団体である「青い芝居の会」は当事者の立場から、障害者の主体的権利主張を行い、社会に改善を求めていた時代時であった。*2

このように、24時間テレビには、社会が障害者を差別に取扱われ、人間として扱われず、障害者が社会の中で生きることを疎まれる時代にあって、障碍者福祉の革命児として社会現象を起こして、障害者への理解を広め、私たちは障害者の存在を再認識する契機をもたらした。

だが、24時間テレビがマンネリ化してしまい、視聴率も低下していった。1992年に24時間テレビのバラエティー路線へ変更する。
そして障害者が様々なことをチャレンジさせる企画が「感動ポルノ」と批判される。
「感動ポルノ」に批判されるべき点はあるが、それは同時に別の懸念がある。
社会学者の前田拓也によると

ここまで述べてきましたように、たしかに「感動ポルノ」は批判されてしかるべきものです。しかし、ここでわたしが危惧するのは、「感動ポルノ」批判が含んでしまっている、露悪的な、ある種の「本音主義」のようなものとの親和性です。

そうした態度は、ネット上で「建前を排して本音を語る」、あるいは、「タブーに挑戦する」というかたちを取りながらヘイトをばら撒いたり、公の場で「本音」という名の暴言をブチまける人が喝采を浴びるようになってしまうような心情と、ときに親和的であるように思えるんです。
(中略)
バリバラの「感動ポルノ」批判が、「感動」の逆張りに終始するものとして解釈され、「良識」や「偽善」を嗤って「本音」の側につくという共犯意識をつくりだすことに成功しただけなのだとすれば、あるいは、「本音」の共有によって、障害者への負の感情が共通の足場を獲得していってしまうのだとすれば、やはりそれをそのまま素直に肯定することはできません。

ですから、「感動ポルノ」はあくまでも、「障害者役割」をいっそう強固にするものであるという意味において、また、「障害の社会モデル」という文脈において、批判されるべきだと考えます。

「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって/前田拓也 - SYNODOS

私自身は今の24時間テレビに期待することは何も無い。24時間テレビが作り出す、障害者像はときに障害を当事者に問題あるものとする考え方になってしまい、本来ならば障害者の権利を実現していくための障害への理解およびその理解の積み重ねによる福祉国家を実現していくという24時間テレビの原点を視聴者ばかりか日本テレビのアナウンサーやプロデューサーや幹部たちが忘却し、その24時間テレビの原点を継承できていない時点で24時間テレビは社会的な役割は果たしていないし、とうの昔に終わったものである。

だが悩ましいのがこの24時間テレビが終わったら日本テレビが障害者に関して何も関心を払わなくなるため消極的に情けなく残さないといけに状況と、本音主義によって良識や理性を逆張りすることでかえって障害者や障害への理解を遠のける恐れがある。無関心と本音主義の悪魔合体の論理で24時間テレビを終わらせてもいいのか、それとも障害者のエンターテイメントによって輝く障害者というイメージを固定し、障害は個人の努力で乗り越えて、社会性や政治性が生み出す障害に何も関連の関心を払わないままであるべきなのか。
24時間テレビを続けるにしろ、終わるにしろ、メディアの役割とそれを取り巻く社会の論調を考察しながら、続けていくためにどのような思想が必要なのか、終わるとしたらどのような思想が必要なのか、それぞれ用意することが必要である。

最後に私の希望は24時間テレビの原理を今一度継承しつつ(特に日本テレビは継承してほしい)、ゆるやかに24時間テレビをゆるやかにフェードアウトできる社会環境及び政治体制、そして人々の相互理解によるコミュニケーションが実現できる社会を望みたい。


参考資料
24時間テレビ[第1回 (1978)]グランドフィナーレ - YouTubewww.youtube.com

感動ポルノの功罪を問う②~24時間テレビは障害者福祉の革命児だった - 成年者向けコラム | 障害者ドットコムshohgaisha.com

「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって/前田拓也 - SYNODOSsynodos.jp