読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

社会とサブカル コラムノート

社会哲学と生命倫理を軸に、社会批評とサブカルチャーコラムをただ思うがままに書きたいです。

夫婦別姓を考える視点

2015年の12月16日に最高裁判所が、夫婦別姓を認めない民法憲法違反ではないと下した。
この夫婦別姓を認めなかった判決に対して、多くの人々に疑問を表明している。
夫婦別姓論者は、自分の性(=名前)は自分のアイデンティティであること、自分の性を奪われることに対する不安、今までの家系の性を継いでいきたいなどある。
私は、この気持に賛同する部分はある。自分の性を名乗ることで、今まで生きてきた証であること、他者から自分を認識するための証であること、それを奪われることによる違和感、自分が自分でなくなることへの漠然とした不安は共感できる部分もある。
しかし、夫婦別姓に賛同できない、あるいはあ疑問に思うことがある。
それは、実家の性にこだわることによる実家主義、その実家の性しか選択することができないことの問題があり、現状夫婦同性であれ別姓であれ、考えないといけない問題だ。

宮崎哲弥は、『選択的夫婦別姓導入は、少なくても日本社会の現状においては、対等かつ自律的な夫婦関係の構築を支援する効果よりも、夫婦がお互いの生家への依存を高める弊害の方が大きいだろう。』(宮崎哲弥 正義の味方(新潮文庫版) 2001年 p291)と指摘し、宮崎は3つの条件を提示し、①結合性(鈴木と坂本が結婚して、鈴木―坂本とする)や新生創設(夫婦双方の旧姓を捨てて新たに性を付け直す)を選択できるようにし、②国民に対して、自分の性を自分の意思に従って選択できるようにすること、③通称使用の自由を、職場で認められるように行政指導することの3つの条件を上げて、『この条件を満たされることで、性と生家の関係が必然ではなく選択的なものとなり、そこではじめて夫婦別姓「選択」の意義も生きてくるのである。』と述べている。(宮崎 同上 p293~294)

私は、夫婦別姓は認めるとしても、宮崎が特に批判している生家主義に対しての警戒感を持ちつつ、その実家の性を相対化するための新生創設は必要不可欠である。

夫婦別姓は、選択の自由、個人の価値観を守るためには必要なことであるが、自家イデオロギーにならないように、それにともなう子どもの性をめぐる争いにならないように、夫婦別姓推進派は考える視点を持つべきである。

参考文献
宮崎哲弥「正義の味方」 2001年 新潮社

広告を非表示にする