スグルのメモ帳(私って何―自己と社会を知りたい―)

自分の知識を使いコラムを通して、自分と社会を知っていくためのメモ帳です。

「いつの間にか消えたアレ。意外とまだあるアレ。」を聞いた雑感

TBSラジオでやっている文化系トークラジオ Life 「いつのまにか消えたアレ。意外とまだあるアレ。」(2022年2月27日)を聞いて、自分が身の回りにあるあれは以外とまだ残っているな、これはいつのまにか無くなったなと考えた。この記事は、ラジオ本編の内容は薄らしか覚えておらず、あくまでも自分の考えのメモであることをご了承いただきたい。

意外とまだあるアレ

私が思う意外とまだあるアレは体罰、ブラック校則をまず思い浮かんだ。体罰は法律上禁止されているが、学校の教師が生徒への体罰(セクハラ含む)が後を絶たない。ブラック校則も髪型や下着の色、服装などきめ細やかに指定されて、それに反すると厳しい指導を行っている。
私はなぜ体罰、ブラック校則、ブラック部活動があるのかと疑問に感じるのは、80年、90年代に荒れた学校、行き過ぎた生徒指導の結果、生徒が死亡した事例、人権が深く傷つけられた歴史があり、その歴史を忘れて同じ手法を使われているのかという疑問がある。もっというならば、学校は科学的な思考、経験則的な思考を排除しているのかという疑問が浮かぶ。
例えば、女子生徒の下着指定の校則も透けない下着の色というのは下着メーカーの実験研究に基づいて下着のあり方を決めたり、女性教員の経験的な思考であり方を決めて校則がつくられるならば分かるが、杓子定規に白色の下着に限定することはできないのかと思ってしまう。ブラック部活動にしてもそうだ。体罰プロスポーツの世界でも厳しい批判およびそれを行ったら処分される時代だ。
プロスポーツの世界ではアスリートの心身のコンディションを重視される、無理のないトレーニングが行い、パフォーマンスを発揮させることを重要だと考えている。ところがブラック部活動は1年中、学校に拘束されて練習を行い、それを良しとする考え方はプロスポーツの世界と対極的な考え方である。
もちろん学校評価の問題で、学校の評判を守るために生徒に厳しい校則を課せざる得ない状況であること、先生の多忙してしまい、学校の標準化してしまい、生徒一人一人の個性に目を向ける余裕がないことあるなど事情は踏まえないといけない。ただ、過去の失敗を何も反省無しにその方法を使っていること、行動経済学教育心理学などを使った生徒指導など教育学や学校教育の進歩が何一つみることができないのが一番の問題点である。
体罰、ブラック校則、ブラック部活動が残っているは教育、学校教育の実践においてどうして歴史の反省もない、科学的な方法論の進歩が見えないことにあるのかなと仮説を考えているけど、実際どうなんでしょうか?

いつの間にか消えたアレ

いつの間にか無くなったものを思い出すことは難しいなと思う。それがあったのは本当に突然消えてしまったものも私の小さな記憶容量から引っ張り出さないといけず、これが思い出せない。そんな中で、いくつか思いついたのはTBSラジオの野球中継がなくなったことだ。
これはいつ頃なくなったのか、思い出すことができないが、野球中継をやっていた時代は例えば「荻上チキのSessionー22」時代の時、TBSは野球中継をやって、その他の放送局やストリーミング配信は「荻上チキのSessionー22」をやっていた時代があった。その結果、生放送のバタバタ感が伝わり、それはそれ味わい深いときもあったが、TBSラジオ側はタイムスケジュールが大変だと思うし、リスナーさんもそれを良しとしないこと、なにより野球中継の人気も無くなっており、野球中継する旨みが失われていると思うと仕方なさを覚える部分があるなと思った。

もう一つは、ポケモン映画だ。最後のポケモン映画は2020年12月に公開された「ココ」だ。ポケモン映画はアローラ編以降は、サトシとピカチュウのオリジナルの物語、ミュウツーの逆襲 EVOLUTIONとアニメ本編のキャラと絡むことがなくなった。それくらい、ポケモンコンテンツには数字はあるが、映画という媒体ではポケモンが無くなった。その代わり、YouTubeポケモンのアニメが充実していて映画館で皆で見るものから、動画で個人が一人一人見る時代になったこと、ポケモンのキャラクターの多様性、映像コンテンツの多様性を感じたなと思い出した。

まとめ

自分の生活の中で、あれはまだあるのか、これそういえば見ないなと思うのかを考えることは個人の生活の変化や社会の変化を気づくきっかけになってとても楽しかった。皆様も、文化系トークラジオ Lifeの「いつの間にか消えたアレ。意外とまだあるアレ。」を聞いてみたり、まだこれ残っているのか、そういえば消えたなものを考えてみると良い時間潰しになるので、ぜひぜひ考えて見てくさい。そして、これまだ有ること、これ無くなったことについてのコメントをくれるとありがたいです。長文失礼しました。

「2023年、ブログ関係に人生をかける」

今週のお題「かける」

今年は、働き方が特殊であり、就労時間が短い。
就労時間が短いので収入は低いが、就労時間が短いことで自分のやりたいことに取り組む最後のチャンスだと思い、ブログ関係に取り組みたい。

別媒体で毎日投稿して、有料記事や有料マガジンを作るために文章を書くトレーニングをしている。
でもその文章に内容はなく、140文字の「つぶやき」を使い、自分の日記をさらしているぐらいだ。
書きたい内容はたくさんあるが、その準備がなかなか進まない。書きたい主題があるが、そのインプットが進まないし、アウトプットも筆が進まない。
はてなでもアフィリエイトで副収入を得たいと思っているが、はてなは思ったよりアクセスが伸びず、やる気が起こらない。

それでも、文章を書きたい意欲はある。私は「2023年、ブログ関係に人生をかける」という決意表明することで、ブログを書き続けるためのモチベーションを維持したいと思っている。
昔ならばブログを書き続けることができなかったが、別の媒体で毎日投稿を続けて、はてなではお題記事を書いている。
正直内容は何も無いし、同じ事ばかり書いているが、まずは書くことを辞めていないことは自分の中では大きな成長である。
2023年はもっとブログを書き続けて、内容のあるブログ記事を増やしていきたい、その文章力で収入を得たい。
私にとってブログを書くことは、自分の得意な事の一つであり、なんとか収入源の一つとすることで、自分の生活を足しにしたい。そのくらい自分の人生をかけて取り組みたいことであるし、2023年は将来の自分の人生を左右するくらい大事な年であり、2023年を駆け抜けたい。

Twitter凍結祭りに関する雑感

2023年2月3日、朝Twitterを開いたら、フォローしている数が減っていた。
何事かTwitterのタイムラインを見たら、どうやら多くのアカウントが凍結されてしまったみたいだ。
理由は、外部ツールが行ってくれるの自動投稿がBot扱いになってしまった、電話番号が未登録、ハッシュタグやRTが多すぎる、同じ文字列の投稿など、これらが原因になっているみたいだ。
私はTwitterを利用しているので、いくつかのハッシュタグやRTを多くしている、自分のサブ垢で本垢のツイートをRTしていたので気をつけたい。
だが、これだけTwitterのアカウントが凍結されてしまうと、Twitterへの信頼が損ねてしまう。
実際、私もTwitterへの信頼していいのか分からない。そもそも拡散機能としての期待していないというか、ツイートの表示数を見てしまう自分のツイートに拡散する能力がないと思ってしまった。

私自身も自分のブログを見て貰うために、Twitterにリンクを載せているがリンク先のアクセスされていないし、思ったより人々がリンク先をアクセスしてもらえないことが分かり、その見てもらうための方法を考えなければいけないのかなと思っている。
もっとも、新しい先が見つからず、はてなブックマークの治安があまりよくないため、当分の間はTwitterを中心にしていくが、自分のブログのリンクを貼付けたツイートがBot認定されてしまう恐怖もあり、Twitterに過度に依存しないかつ自分のメディアを拡散する手段が欲しいとここ数ヶ月思っている。

もう一つは、Twitter社が多くのアカウントを凍結処置することによるその空間がどのように変化するのか。
もちろん、Twitter社が想定されていない使い方するアカウントを凍結することは望むような空間を作ることができるかもしれないが、何時誰がアカウントを凍結される状況、その凍結される基準がいつどのようなタイミングで行われるのか分からない状況は恐怖しかない。
こんなTwitterを利用している人達に恐怖とその対応の負担を強いることをしていれば、きちんとルールを守っていた利用者もTwitterから離れてしまうのではないかと懸念してしている。
果たしてTwitter社はこのような状況は望んでいるのか、その手段の妥当性はあるのか、私は疑問に感じる。

Twitterはどこに向かうのか、私には検討がつかない。今後のTwitterの動きを注視しながら、私はTwitterからの依存を減らしながら、新しい道を模索していきたいと考えている。Twitterがどのような空間になるのか、どのような方向を目指しているのか、その目指す方向性に設計できるのか、今後のTwitterの動きについても考えていきたいと思う。

2023年1月のはてなブログ雑感

2023年1月に振り返り

特にはてなブログは更新できませんでした。

最近は、「note」という媒体で記事を書いたり、つぶやき機能を使い毎日更新しているが、はてなブログは更新が滞っています。
まぁ、いろいろWordで書いてきた物を出したいが、家にあるパソコン全てマイクロオフィスソフトが全て使えなくなってその文章を引き出せず、再編集できないので滞っているのが辛いですね。
加えて、1月は寒いし、コンディションをなかなか上げることができなかった。寒い上に、天気が悪く、外に出る気力がなくなってしまい、運動量が減ってしまい、本を読む気力なくなり、文章を書くことが減ってしまった。

社会に関心がなかったが、最近また「文化系トークラジオ Life 」のアーカイブを聞きはじめ、社会学に関心を取り戻し、そのアーカイブで感じたことを備忘録としてブログにしたことがあるが、当分は「文化系トークラジオ Life 」の備忘録記事を中心になるかな?
そのラジオを聴き、社会への関心を取り戻し、その気づきをきっけに本を読んで文章にまとめていきたいと思っている。
あとはアニメ感想記事も書きたいな(遠い目)アニメ感想記事ってどのようにして書くのかな?

あと1月の中で大きな変化は、1年以上続いていたニートから社会復帰を果たしたことだ。そういっても、就労支援施設A型で働き、就労時間も短いし、一般就労できる自信もない。まだまだ社会復帰したとは言え、小さな1歩だが、少ない中で収入を得ることができるので精神的には安心材料である。その少ない収入だが、自分への投資をしっかり行いたい。
特に社会科の本を読んだり、アニメを見たり、少しでも自分のやりたい文章を書いて、それを就労スキルにしていく、または収入を得るスキルに変えることをことを行いたい。2023年は就労時間が短いため、そういた文用を書くことを通したことに多くの時間を使っていきたい。
1月の寒さから2月に入り、中旬頃には気温が上がり、少しは今よりマシな状況になっているだろう。
2月こそ、本当のスタート。とりあえず、就労習慣を身につける、体力付けて、たくさん本を読む、文章を書くことが2023年のやりたいこと。1月は躓いてしまったが、トータルで2023年が良い年だった思えるように行動していきたい。

「なぜ今、私たちはこんなに覚えられないのだろう」を聞いての雑感・備忘録

TBSラジオ、文化系トークラジオ Life 「なぜ今、私たちはこんなに覚えられないのだろう」(2022月10月30日)を聞いての雑感・備忘録を残しておきたい。
久々に文化系トークラジオ Life を聞いて、よかったと思った。
社会時評や文化時評を書きたいが、書く気力もない、もっというならば社会に関心がなくなっているなか、文化系トークラジオ Life は興味を失せていた社会に関心を向けるきっかけになった。

今回の「なぜ今、私たちはこんなに覚えられないのだろう」は、私自身のレベルにおいても感じることで、アニメを見ていて、15人以上登場する人物の名前を覚えることができなくなっているし、物語性のある作品のストーリーを理解できなくなっている。
新書でも、斜め読みしてただ流して読んでいるが、内容が残らなくなっている。
もともと短期記録が弱く、ウキペディアを読んだり、誰かが書いたブログで作品の解釈を読んだりして、やっと記憶に定着する人間なので、昔から記憶する事が苦手、もっというならば記憶できる気がしないのだが、学生時代はウキペディアやブログなどを読んで記憶に定着させていたなとことを思い出した。

たぶん、記憶する能力が劣り、脳の情報処理がポンコツなので試験が得意ではないのですよね。試験勉強ができないというか、試験後に何も残っていないというか(苦笑い)
逆にレポートは得意なので、その書いた内容は覚えているので、書き物にすることで自分の記憶にしています。

個人の記憶、「なぜ今、私たちはこんなに覚えられないのだろう」という観点から私自身のエピソードを考えていたが、本編最終部分で鈴木謙介が個人の記憶の部分から「集合的記憶」の話がでた。
集合的記憶」は他者の記憶を頼りにしながら、〈過去〉の出来事を〈現在〉において思い起こし、共通の思い出として再構成する共同作業である。(横山寿世理 『集合的記憶』 p122-宇都宮京子編 「よくわかる社会学第2版」 ミネルヴァ書房 2009年)

個人のレベルで覚えている覚えていないということを超えて、震災や戦争や海外の文化的文脈を本来は社会の共通事項として記憶しておくべきことや「忘れてはいけないこと」について、一方で様々な媒体のアーカイブがあることで記憶する必要性に欠いたり、一方で体験していない人が覚えていないさいというパターナリズムが生じたりなどする。また塚越健司さんが、ポストトゥルースの問題と絡めて、人が思う真実も乖離が生まれていること、事実が個人の中にあって、人々の間で合意が取れなくなっていることの問題点を指摘している。

私はそこに関心があり、歴史教育において、〈過去〉の出来事を共有作業していくのが教室内の歴史教育の目的だとすると、教室の外側の現実社会ではその〈過去〉の出来事はそれを題材にしたコミュニケーションが行われることがなく、試験の目的とした暗記物に成り下がっている。また、1998年の小林よしのりの「戦争論」が流行っていた時に、当時の歴史教育の課題を梅野正信は、『学校教育で学ぶ「憲法九条」の大義と、現実に生起し、報道される国際紛争とのあいだに生じる子どもたちの素朴な疑問、心の隙間、いわば「戦後平和教育の陥穽」をズバリとつかみとることに成功した』を指摘する。(梅野正信『戦争論言説を超えて』P240―「戦争妄想論」 教育史料出版会 1999年 )

本来ならば、〈過去〉を通したコミュニケーションという作法するうえで、歴史教育は重要な作法である。だが、歴史への科学的根拠がない言論や修正や歴史そのものをなかったことにする動きに対して対抗しきれていない。
個人で「なぜ今、私たちはこんなに覚えられないのだろう」ということではあれこれ与太話程度で済むが、震災や歴史、文化的文脈など社会集団が〈過去〉、〈記憶〉を前提した者同士の主体的なコミュニケーションによって「覚えていないといけないもの」が「忘れてしまう」、「改竄される」などが起こってしまう。
同時に「覚えなさい」というパターナリズムの問題やその「覚えなさい」の範囲、どれくらいの量・質を「覚えていないといけないものなのか」という問いも生まれる。
こうした「覚えている」ことを巡るパターナリズムの問題や取捨選択について、僕自身も明確な答えを持っていないが、Lifeの配信を聞いて、社会で「覚えている」ことの問題意識を気づきを得ることができた。そして今後ももっと自分が覚えられないだろうという視座から社会に目を向けて、その問いを自分の中で考え続けていきたいと思った。

「なぜ今、私たちはこんなに覚えられないのだろう」という回から、私自身がどのようにして覚えているのか、私の記憶力について考えることができて、自分を知ることができた。もちろん私の興味関心事象である「歴史とは何か」、「集合的記憶」、「歴史教育」などについての考え方を整理することができた。

私の社会への興味関心が薄れている中で、改めて「文科系トークラジオ Life」を聞いたことで、自分の興味関心がどこにあるかということが分かっただけでも有意義だった。
取りまとまりがない、散文になってしまったが私の備忘録、その時に感じたことをメモして、残しておきます。この日を忘れないために。

参考文献
梅野正信『戦争論言説を超えて』P240 ―「戦争妄想論」 教育史料出版会 1999年
横山寿世理 『 集合的記憶』 p122 ― 宇都宮京子編 「よくわかる社会学第2版」 ミネルヴァ書房 2009年