スグルのメモ帳(私って何―自己と社会を知りたい―)

自分の知識を使いコラムを通して、自分と社会を知っていくためのメモ帳です。

虎ファンの道頓堀ダイブと「予言の自己成就」

日本のプロ野球セ・リーグ阪神タイガースが優勝した。
阪神優勝というめでたいニュースの裏で阪神ファンが道頓堀にダイブしたニュースが流れた。

www.sankei.com

阪神が優勝したときのおなじみの光景として映像が流れてくる道頓堀ダイブ
どうして人は、自分のイデンティティに基づき、行動してしまうのだろうか。
今回で言うならば、タイガースファンならば優勝したとき道頓堀にダイブしなければいけない、したいと思うのはなんでだろうか。
もちろん全ての人が自分のアイデンティティに基づき、行動しているわけではない。
法律による禁止行為や警察の注意喚起にもとづき行動を抑制している人が多いのは前提であるが、人はなぜ自分のアイデンティティに基づき行動してしまうのか。

社会学に「予言の自己成就」という考え方がある。今回で言うならば、タイガースファンが優勝したならば道頓堀に飛び込むことが予想されること、タイガースファンである自分は優勝したならば道頓堀にダイブしなければならないという思い込みがあって、実際に2023年9月14日に阪神タイガースが優勝した状況になったときに、事前の予想や自分の思い込みがその通り現実で起こってしまうことが「予言の自己成就」である。
こうしたタイガースファンならば~こうである思い込みがラベリング化されることで自分の中で「~せねば」という行動を呼び起こしてしまうし、世間もまたファンが行動することを期待してしまうことで、より道頓堀ダイブが現実で起こってしまうのは否定しきれない。

タイガースファンの道頓堀ダイブしたことは報道されて、今もテレビで映像が流れてしまい、ますますメディアの予想や自分の思い込みを強固されてしまい、それを実行してしまう可能性はある。
私は「予言の自己成就」を防止する対策はありませんが、少なくても社会の予想や負のラベリング(スティグマ)があるときに自分の思い込みを疑うことが大切ではないかと考える。
これは個人的対処でしかないが、個々人の行動の集積によってその行動を抑止する地道なことでしかできないし、私も「予言の自己成就」が実現しないように心がけたい。

参考文献
森岡淸志 社会学入門 放送大学教育振興会 2016年

24時間テレビに対する私の雑感

8月の末頃、日本テレビ系列では24時間テレビが放送される。
私自身、発達系の障害を持っているし、社会福祉福祉国家に関することに興味あるが、24時間テレビに関心があるかと言われれば興味が無い。
社会科学を勉強してきた者としては、様々な障害を抱えた当事者に関する障害者の困りごとをいかにして、他者に障害に関するリテラシーの向上していくためであったり、普遍的な制度を政策論に落とし込むことができるかに関心はある。ただ24時間テレビを見ていて、障害に関する理解が向上しているのかと言われるとそうではないし、むしろ特定の個人に努力をしていく姿を過剰な演出することによって障害は個人の問題であり、努力で解決するものであるあり、この現実の社会が作り出している障害から目を背けることを懸念はある。
それでも日本テレビの「24時間テレビ」は本来ならば、多くの人々がチャリティーに参加することで障害者理解を深めることが期待されていた。
第1回1978年のテーマは「寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を!」に、募金金額も12億円が集まった。

番組内容の企画自体で私が調べた範囲で目を引いたのは、厚生大臣を武道館に招く、司会の大橋巨泉は「決して豊かではないこういう僕たちの企画に賛成してくれて、あの、募金してくれたとおもうのです。」「福田赳夫総理大臣はじめ政府の方、全政治家の方に、本来はあなた方がやるべきことだと。福祉国家を目指してよい政治していただきたい」と述べていた。*1

70年代の日本は、優生保護法が残されている、障害者の安楽死不妊手術の推奨している、出生前診断による先天的な病気・障害がある胎児の中絶を推進の始まり、脳性マヒ者団体である「青い芝居の会」は当事者の立場から、障害者の主体的権利主張を行い、社会に改善を求めていた時代時であった。*2

このように、24時間テレビには、社会が障害者を差別に取扱われ、人間として扱われず、障害者が社会の中で生きることを疎まれる時代にあって、障碍者福祉の革命児として社会現象を起こして、障害者への理解を広め、私たちは障害者の存在を再認識する契機をもたらした。

だが、24時間テレビがマンネリ化してしまい、視聴率も低下していった。1992年に24時間テレビのバラエティー路線へ変更する。
そして障害者が様々なことをチャレンジさせる企画が「感動ポルノ」と批判される。
「感動ポルノ」に批判されるべき点はあるが、それは同時に別の懸念がある。
社会学者の前田拓也によると

ここまで述べてきましたように、たしかに「感動ポルノ」は批判されてしかるべきものです。しかし、ここでわたしが危惧するのは、「感動ポルノ」批判が含んでしまっている、露悪的な、ある種の「本音主義」のようなものとの親和性です。

そうした態度は、ネット上で「建前を排して本音を語る」、あるいは、「タブーに挑戦する」というかたちを取りながらヘイトをばら撒いたり、公の場で「本音」という名の暴言をブチまける人が喝采を浴びるようになってしまうような心情と、ときに親和的であるように思えるんです。
(中略)
バリバラの「感動ポルノ」批判が、「感動」の逆張りに終始するものとして解釈され、「良識」や「偽善」を嗤って「本音」の側につくという共犯意識をつくりだすことに成功しただけなのだとすれば、あるいは、「本音」の共有によって、障害者への負の感情が共通の足場を獲得していってしまうのだとすれば、やはりそれをそのまま素直に肯定することはできません。

ですから、「感動ポルノ」はあくまでも、「障害者役割」をいっそう強固にするものであるという意味において、また、「障害の社会モデル」という文脈において、批判されるべきだと考えます。

「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって/前田拓也 - SYNODOS

私自身は今の24時間テレビに期待することは何も無い。24時間テレビが作り出す、障害者像はときに障害を当事者に問題あるものとする考え方になってしまい、本来ならば障害者の権利を実現していくための障害への理解およびその理解の積み重ねによる福祉国家を実現していくという24時間テレビの原点を視聴者ばかりか日本テレビのアナウンサーやプロデューサーや幹部たちが忘却し、その24時間テレビの原点を継承できていない時点で24時間テレビは社会的な役割は果たしていないし、とうの昔に終わったものである。

だが悩ましいのがこの24時間テレビが終わったら日本テレビが障害者に関して何も関心を払わなくなるため消極的に情けなく残さないといけに状況と、本音主義によって良識や理性を逆張りすることでかえって障害者や障害への理解を遠のける恐れがある。無関心と本音主義の悪魔合体の論理で24時間テレビを終わらせてもいいのか、それとも障害者のエンターテイメントによって輝く障害者というイメージを固定し、障害は個人の努力で乗り越えて、社会性や政治性が生み出す障害に何も関連の関心を払わないままであるべきなのか。
24時間テレビを続けるにしろ、終わるにしろ、メディアの役割とそれを取り巻く社会の論調を考察しながら、続けていくためにどのような思想が必要なのか、終わるとしたらどのような思想が必要なのか、それぞれ用意することが必要である。

最後に私の希望は24時間テレビの原理を今一度継承しつつ(特に日本テレビは継承してほしい)、ゆるやかに24時間テレビをゆるやかにフェードアウトできる社会環境及び政治体制、そして人々の相互理解によるコミュニケーションが実現できる社会を望みたい。


参考資料
24時間テレビ[第1回 (1978)]グランドフィナーレ - YouTubewww.youtube.com

感動ポルノの功罪を問う②~24時間テレビは障害者福祉の革命児だった - 成年者向けコラム | 障害者ドットコムshohgaisha.com

「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって/前田拓也 - SYNODOSsynodos.jp

教員の労働改善と子どもの福祉

教員の労働改善と子どもの福祉

 

教員の本務は教えること、知識の伝達にあるのはそうであるが、部活動や保健については子どもの福祉と切っては切り離せず、子どもが学業不振でも学校からの離脱を防いできた面は否定できないから教員の業務拡大と子どもの福祉をどうしていくのかは課題だと思う。

近年、教員の過剰労働について改善を求める動きはあり、それについては賛同する一方で、授業以外の業務についてドライなのが気になる。

部活動の地域クラブ以降は教員の負担もそうであるし、部活動内の秩序が学校内に持ち越されるため、クラス内や学年内の人間関係に影響を与えるため、部活動を学校から切り離すことに賛成ではある。

ただ、今のまま地域移行が進めば、地域や保護者の資源格差によって文化活動やスポーツ活動を享受できる生徒とできない生徒が生まれること、文化活動やスポーツ活動が市場の論理に左右されやすくなることについて関心を払っていないのは気になる。

教育学的に教育を市場の原理によって、教育を受ける機会の平等やサービスの均質性を左右されることを新自由主義ということで批判してきたが、今の地域移行は新自由主義の論理にさらされてしまい、教育を受ける機会の平等なサービスの均質性を揺るがしかねないことについてどう考えているのでいるのか。

新自由主義の論理に原理的に反対しているのか、それともケースごとに使い分けているのか。

いずれにしろ今までの教育学の市場の論理新自由主義批判言説と教員たちが求めている労働改善の案についてのどう考えているのだろうか。

教員の仕事をむやみに拡大し、アンペイドワーク、無償や低賃金で任せてはいけないし、教育を家庭の責任、地域の責任の連携で子供の福祉を実現していくのかは大事なことである。

ただ今の教員側からの労働改善案や教えることを本職としてその他業務を委託すれば良いという考え方に子どもの福祉を軽視しているのではないかという若干懸念と教育学の新自由主義批判との違いがあるため、それらについてどう考えて折り合いをつけていくことができるのか。

私にはその問いに対する解は持ち合わせていが、その関心を持って見守っていきたい。

はてなスターに関する雑感

はてなブログ、ブログの書式機能はとても有能だがはてなスターについてもやもやしてしまう。

 

はてなスターは1人で何回もつけることができて、私も記事を読んで良い記事の場合、2〜3個つけてしまうが、とある記事で70個以上はてなスターがついた。

 

正直、これが嬉しくない。これが自分の記事が本当に評価されたのかが分からないのだ。正直にいうと一人で大量のはてなスターが付けられているのを見て、引いてしまった。正直モヤモヤしているが、このスターがはてなの中でアクティビティが上昇して、見てくれる人が増えてくればありがたいがそうはいかないだろう。私は今回のことを通して、スキ、いいね、高評価などを押すとき、きちんと吟味して、評価している部分を考えながら行っているいきたい。そしてきちんと評価している部分を考えることは相手へのリスペクトすることになると考えました。

 

1人の人に大量に評価されるだけでは良いこととは限らないし、多くの人々の評価の数、コメント、叱咤激励などの質こそが大切であり、それが自分を成長させる貴重な存在であることを忘れてはいけないと感じました。

「いつの間にか消えたアレ。意外とまだあるアレ。」を聞いた雑感

TBSラジオでやっている文化系トークラジオ Life 「いつのまにか消えたアレ。意外とまだあるアレ。」(2022年2月27日)を聞いて、自分が身の回りにあるあれは以外とまだ残っているな、これはいつのまにか無くなったなと考えた。この記事は、ラジオ本編の内容は薄らしか覚えておらず、あくまでも自分の考えのメモであることをご了承いただきたい。

意外とまだあるアレ

私が思う意外とまだあるアレは体罰、ブラック校則をまず思い浮かんだ。体罰は法律上禁止されているが、学校の教師が生徒への体罰(セクハラ含む)が後を絶たない。ブラック校則も髪型や下着の色、服装などきめ細やかに指定されて、それに反すると厳しい指導を行っている。
私はなぜ体罰、ブラック校則、ブラック部活動があるのかと疑問に感じるのは、80年、90年代に荒れた学校、行き過ぎた生徒指導の結果、生徒が死亡した事例、人権が深く傷つけられた歴史があり、その歴史を忘れて同じ手法を使われているのかという疑問がある。もっというならば、学校は科学的な思考、経験則的な思考を排除しているのかという疑問が浮かぶ。
例えば、女子生徒の下着指定の校則も透けない下着の色というのは下着メーカーの実験研究に基づいて下着のあり方を決めたり、女性教員の経験的な思考であり方を決めて校則がつくられるならば分かるが、杓子定規に白色の下着に限定することはできないのかと思ってしまう。ブラック部活動にしてもそうだ。体罰プロスポーツの世界でも厳しい批判およびそれを行ったら処分される時代だ。
プロスポーツの世界ではアスリートの心身のコンディションを重視される、無理のないトレーニングが行い、パフォーマンスを発揮させることを重要だと考えている。ところがブラック部活動は1年中、学校に拘束されて練習を行い、それを良しとする考え方はプロスポーツの世界と対極的な考え方である。
もちろん学校評価の問題で、学校の評判を守るために生徒に厳しい校則を課せざる得ない状況であること、先生の多忙してしまい、学校の標準化してしまい、生徒一人一人の個性に目を向ける余裕がないことあるなど事情は踏まえないといけない。ただ、過去の失敗を何も反省無しにその方法を使っていること、行動経済学教育心理学などを使った生徒指導など教育学や学校教育の進歩が何一つみることができないのが一番の問題点である。
体罰、ブラック校則、ブラック部活動が残っているは教育、学校教育の実践においてどうして歴史の反省もない、科学的な方法論の進歩が見えないことにあるのかなと仮説を考えているけど、実際どうなんでしょうか?

いつの間にか消えたアレ

いつの間にか無くなったものを思い出すことは難しいなと思う。それがあったのは本当に突然消えてしまったものも私の小さな記憶容量から引っ張り出さないといけず、これが思い出せない。そんな中で、いくつか思いついたのはTBSラジオの野球中継がなくなったことだ。
これはいつ頃なくなったのか、思い出すことができないが、野球中継をやっていた時代は例えば「荻上チキのSessionー22」時代の時、TBSは野球中継をやって、その他の放送局やストリーミング配信は「荻上チキのSessionー22」をやっていた時代があった。その結果、生放送のバタバタ感が伝わり、それはそれ味わい深いときもあったが、TBSラジオ側はタイムスケジュールが大変だと思うし、リスナーさんもそれを良しとしないこと、なにより野球中継の人気も無くなっており、野球中継する旨みが失われていると思うと仕方なさを覚える部分があるなと思った。

もう一つは、ポケモン映画だ。最後のポケモン映画は2020年12月に公開された「ココ」だ。ポケモン映画はアローラ編以降は、サトシとピカチュウのオリジナルの物語、ミュウツーの逆襲 EVOLUTIONとアニメ本編のキャラと絡むことがなくなった。それくらい、ポケモンコンテンツには数字はあるが、映画という媒体ではポケモンが無くなった。その代わり、YouTubeポケモンのアニメが充実していて映画館で皆で見るものから、動画で個人が一人一人見る時代になったこと、ポケモンのキャラクターの多様性、映像コンテンツの多様性を感じたなと思い出した。

まとめ

自分の生活の中で、あれはまだあるのか、これそういえば見ないなと思うのかを考えることは個人の生活の変化や社会の変化を気づくきっかけになってとても楽しかった。皆様も、文化系トークラジオ Lifeの「いつの間にか消えたアレ。意外とまだあるアレ。」を聞いてみたり、まだこれ残っているのか、そういえば消えたなものを考えてみると良い時間潰しになるので、ぜひぜひ考えて見てくさい。そして、これまだ有ること、これ無くなったことについてのコメントをくれるとありがたいです。長文失礼しました。