スグルのメモ帳(私って何―自己と社会を知りたい―)

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二十一世紀の若者論ーあまいな不安を生きる 感想

二十一世紀の若者論ーあいまいな不安を生きる

 この文書は都留文科大学でお世話になった、宮台門下生の非常勤講師に送った文章である。
 連絡手段がなく、PDFをTwitterで送ることができず、このような形で公表するのをお許しいただきたい。
 
 「二十一世紀の若者論」は、「若者批判」に対して、それぞれ論者が「能力主義」と「自己責任」という切り口から見直し、若者論の全体の見通し、特に社会学の見通しを示したものである。第9章の中で、2000年代の「がんばりなさい」と叱咤激励する若者論と対極に古市憲寿の「あきらめさせろ」という現状維持の若者論がはびこる中、その両極の若者論ではなく、グランドセオリーによる現状を前進していくための若者論を本作は模索している。  すべての章のレビューは難しく、都留文科大学の講義内で取り扱っている「第1章」と「第6章」を中心にしてレビューしてみたい。
 第1章「宮台真司という現象」では、初期宮台の若者論の解説とおよびその構成に与えた影響について書かれている。
 宮台氏は、ルーマンの「信頼の形成」、コミュニケーションを成立するための共同性の確保、個人と社会の関係の複雑性を縮減して可視化できるのか(p26)という枠組みを用いて、社会を考察し、メディアを通じて発信してきた。私自身も、宮台氏の影響で社会学を学んだが、具体的に彼のシステム論と若者論のつながりが分からなかった。この章を読み、宮台若者社会学の理解が整理できた。
 宮台社会学は「社会学」ではない、いわゆる評論であり、学術の社会学と見なさいという見方もある。新井克弥は宮台氏を「若者論パフォーマーとして社会を啓蒙した功績がある」と評し(P38)、若者の「共同性の確保」するというその後の若者論の課題を与えたという功績をあげている。(p39)後の研究者またはライターもまた若者が生きる世界を考察するが、その若者論はグランドセオリー的な若者論へのアプローチは影を潜めている。(p40)
 新井氏の論文の面白さは、宮台社会学、若者論について彼が用いている社会学的手法を解説し、その功績を明らかにしたことである。私は、宮台氏をマル激、ラジオ、著書など見て、聞き、読みをしてきたが具体的な社会学手法について理解していなかったことを痛感した。この章を読み、宮台社会学社会学について学ぶことができたのは良かった。宮台若者論に対して古市若者論という比較や懸念について読みごたえはあったが、2000年代以降の宮台の若者論へのアプローチやその変化についての評価がされていないのは気になった。
 例えば、「きみがモテれば、社会は変わる。」(2012)、「宮台教授の就活原論」(2011)、男子をヘタレ論などについて、宮台氏はコミュニケーションを通じて社会の共同性を取り戻したい意図は理解できるものの、マッチョ主義や個人(特に男子)のコミュニケーションという努力に矮小化についてどう評価すべきだろうか。
 私が評価するならば、宮台氏の若者論はコミュニケーションという観察対象からコミュニケーションという実践的問題の対象になったと感じた。コミュニケーションの実践こそが社会を成り立たせるものと宮台が考えているからこそ、そこに自発的に参加できない存在は社会が成り立たなくなるという危機を2010年代以降の宮台から感じるが伝わる。
 新井論文を読んで、こうした近年、宮台の発言に感じたことを言語化することができた。
 第6章「スクールカースト能力主義」では、若者の「生きづらさ」をスクールカースト能力主義の社会への浸透の関係を論じている。
 鈴木弘輝先生の論文の中では、スクールカーストの問題を「能力」概念を中心に据えて論じ、能力を尺度とする生徒たちの上下関係の固定化とスクールカーストの中で生きる生徒たちの「生き方」や「生きていること」についての不安が生じること(P132)について論じている。
 スクールカーストの上位者は自己決定という能力を発揮し、自分ができることを発揮し、その発揮されたものの質や量によって学校内・教室内での価値が決まる世界になっている。上位者は安心した「島宇宙」の中で過ごしている。それに対して、スクールカースト下位は自己によって何も生み出すことができなかった生徒は、「自分の意見が通らない」世界になっている。学校内で能力によって自分の価値を示すことが求められている学校生活にそれに紐付けられた「生き方」は現代の生きづらさを象徴している。
 スクールカーストという現象について先生自身はそれに自覚しつつ、カースト上位の生徒のリーダー性に期待しているようにそれを前提とした学校生活になっている。
 スクールカーストは、教育政策の中で、能力主義と「生き方」が結びつくことという社会構造的な問題点が理解できた。「学校の外」へという処方の重要性は同意したい。だが「学校の外」へ認識を向けるのが、この構造問題への対処であるのか、個人の実践的な対処なのかが気になる。
 若者が抱える問題は学校の中で抱える困難を現わしている。生徒の学校内で抱える問題に、「学校の外」へという処方は大切であるが同時にそれが社会の普遍的な制度として組み込むことの困難さを感じる。
 「学校の外」を認識できる力、それを維持できる能力、それにかかわり続けることができる資本力など、どうしても個人の能力に焦点が当てられてしまう。発達障害当事者として、社会と関わり合うことの困難さを感じており、それは構造的困難であり、自己責任と切り捨てることは許されない。だが、同時に社会構造と自己が抱える問題の悪魔合体的課題側面があり、切り離すことの困難さを感じてしまう。自分が当事者になって、公共支援の存在を知り、それを利用して社会復帰を目指している。しかし、公的支援の存在を知らないあるいは調べることができずに、孤立する人もいる。
 こうした公的支援の広報という社会構造の問題あるいはソーシャル・ワーカーの数が少ないという構造問題は存在しているが、その支援を調べてアクセスし、申請するといった個人の行動が必要となってくる。こうした問題を痛感し、いかに「学校の外」あるいは「公的支援」の存在を認識するための社会構造が求められているのだろう。
 第6章でいうならば、「学校の外」へ向かうことで確かにスクール・カーストに傷ついた生徒を安らぎの場を与えてくれるだろう。ただ、懸念点は「学校の外」へという共通認識が広がったとき、「学校の外」へ向かわない生徒あるいは「学校の外」へ認識できない生徒を「自己責任」になりかねない危険性を感じる。学校問題または社会福祉問題を考えるとき、制度を知るか否かで「自己責任」と判定されかれない問題を社会構造の問題として組み込むことが可能なのかというのが今後の課題だと思う。
 こうした課題はあるが、スクールカーストが抱える社会構造の問題と自己責任と切り離す考察は意義があるのは変わりない。教室内で行われているコミュニケーションを通して、私たちが抱えている社会の問題は見えてくる。こうしたコミュニケーションを着目することこそが、社会の構造を知ることに繋がる。
 最後に、自分が「生きづらさ」を抱えた若者当事者となってしまい、この「二十一世紀の若者論」は他人事ではなく、自分事の問題として、社会学思考を鍛えつつ、考察し続けることを続けたいという気持ちを改めて感じる同時に、学部生のころ「コミュニケーション論」や「現代文化の社会学」の鈴木先生の講義内容を思い出すことができ、さらにその理解が深めることができたことに執筆に関わった人たちに感謝を送りたい。

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