スグルのメモ帳(私って何―自己と社会を知りたい―)

自分の知識を使いコラムを通して、自分と社会を知っていくためのメモ帳です。

「なぜ今、私たちはこんなに覚えられないのだろう」を聞いての雑感・備忘録

TBSラジオ、文化系トークラジオ Life 「なぜ今、私たちはこんなに覚えられないのだろう」(2022月10月30日)を聞いての雑感・備忘録を残しておきたい。
久々に文化系トークラジオ Life を聞いて、よかったと思った。
社会時評や文化時評を書きたいが、書く気力もない、もっというならば社会に関心がなくなっているなか、文化系トークラジオ Life は興味を失せていた社会に関心を向けるきっかけになった。

今回の「なぜ今、私たちはこんなに覚えられないのだろう」は、私自身のレベルにおいても感じることで、アニメを見ていて、15人以上登場する人物の名前を覚えることができなくなっているし、物語性のある作品のストーリーを理解できなくなっている。
新書でも、斜め読みしてただ流して読んでいるが、内容が残らなくなっている。
もともと短期記録が弱く、ウキペディアを読んだり、誰かが書いたブログで作品の解釈を読んだりして、やっと記憶に定着する人間なので、昔から記憶する事が苦手、もっというならば記憶できる気がしないのだが、学生時代はウキペディアやブログなどを読んで記憶に定着させていたなとことを思い出した。

たぶん、記憶する能力が劣り、脳の情報処理がポンコツなので試験が得意ではないのですよね。試験勉強ができないというか、試験後に何も残っていないというか(苦笑い)
逆にレポートは得意なので、その書いた内容は覚えているので、書き物にすることで自分の記憶にしています。

個人の記憶、「なぜ今、私たちはこんなに覚えられないのだろう」という観点から私自身のエピソードを考えていたが、本編最終部分で鈴木謙介が個人の記憶の部分から「集合的記憶」の話がでた。
集合的記憶」は他者の記憶を頼りにしながら、〈過去〉の出来事を〈現在〉において思い起こし、共通の思い出として再構成する共同作業である。(横山寿世理 『集合的記憶』 p122-宇都宮京子編 「よくわかる社会学第2版」 ミネルヴァ書房 2009年)

個人のレベルで覚えている覚えていないということを超えて、震災や戦争や海外の文化的文脈を本来は社会の共通事項として記憶しておくべきことや「忘れてはいけないこと」について、一方で様々な媒体のアーカイブがあることで記憶する必要性に欠いたり、一方で体験していない人が覚えていないさいというパターナリズムが生じたりなどする。また塚越健司さんが、ポストトゥルースの問題と絡めて、人が思う真実も乖離が生まれていること、事実が個人の中にあって、人々の間で合意が取れなくなっていることの問題点を指摘している。

私はそこに関心があり、歴史教育において、〈過去〉の出来事を共有作業していくのが教室内の歴史教育の目的だとすると、教室の外側の現実社会ではその〈過去〉の出来事はそれを題材にしたコミュニケーションが行われることがなく、試験の目的とした暗記物に成り下がっている。また、1998年の小林よしのりの「戦争論」が流行っていた時に、当時の歴史教育の課題を梅野正信は、『学校教育で学ぶ「憲法九条」の大義と、現実に生起し、報道される国際紛争とのあいだに生じる子どもたちの素朴な疑問、心の隙間、いわば「戦後平和教育の陥穽」をズバリとつかみとることに成功した』を指摘する。(梅野正信『戦争論言説を超えて』P240―「戦争妄想論」 教育史料出版会 1999年 )

本来ならば、〈過去〉を通したコミュニケーションという作法するうえで、歴史教育は重要な作法である。だが、歴史への科学的根拠がない言論や修正や歴史そのものをなかったことにする動きに対して対抗しきれていない。
個人で「なぜ今、私たちはこんなに覚えられないのだろう」ということではあれこれ与太話程度で済むが、震災や歴史、文化的文脈など社会集団が〈過去〉、〈記憶〉を前提した者同士の主体的なコミュニケーションによって「覚えていないといけないもの」が「忘れてしまう」、「改竄される」などが起こってしまう。
同時に「覚えなさい」というパターナリズムの問題やその「覚えなさい」の範囲、どれくらいの量・質を「覚えていないといけないものなのか」という問いも生まれる。
こうした「覚えている」ことを巡るパターナリズムの問題や取捨選択について、僕自身も明確な答えを持っていないが、Lifeの配信を聞いて、社会で「覚えている」ことの問題意識を気づきを得ることができた。そして今後ももっと自分が覚えられないだろうという視座から社会に目を向けて、その問いを自分の中で考え続けていきたいと思った。

「なぜ今、私たちはこんなに覚えられないのだろう」という回から、私自身がどのようにして覚えているのか、私の記憶力について考えることができて、自分を知ることができた。もちろん私の興味関心事象である「歴史とは何か」、「集合的記憶」、「歴史教育」などについての考え方を整理することができた。

私の社会への興味関心が薄れている中で、改めて「文科系トークラジオ Life」を聞いたことで、自分の興味関心がどこにあるかということが分かっただけでも有意義だった。
取りまとまりがない、散文になってしまったが私の備忘録、その時に感じたことをメモして、残しておきます。この日を忘れないために。

参考文献
梅野正信『戦争論言説を超えて』P240 ―「戦争妄想論」 教育史料出版会 1999年
横山寿世理 『 集合的記憶』 p122 ― 宇都宮京子編 「よくわかる社会学第2版」 ミネルヴァ書房 2009年