スグルのメモ帳(私って何―自己と社会を知りたい―)

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悪という希望 「生そのもの」のための政治社会学の感想

悪という希望 「生そのもの」のための政治社会学

 
 この文書は都留文科大学でお世話になった、宮台門下生の非常勤講師に送った文章である。
 連絡手段がなく、PDFをTwitterで送ることができず、このような形で公表するのをお許しいただきたい。

この「悪という希望」の目的について、序論にて「悪」を擁護することである。具体的に、「悪」という社会の中にある異質的な複数性を擁護すること、それが擁護するための社会ための条件、「悪」の行使を最小限になるように要求し続けるための社会理論を提示することである。この書の解題を書いた宮台真司によると、社会システムが前提にする理性を用いて制度への設計から、理性を用いて感情への設計に向かうために全体主義のリスクを回避するための手段を常に考察し続けることが必要である。
 哲学を学んだものから、社会正義に基づく公正な社会を実現するためにその「何」が正しいのか、「何」が公正なのかという「理性」を問い続ける正義論に対して「悪」という理性とは異なる「自然法則」に従う人間観および社会を描くことで新たな公正な社会を実現するための新しい思考手段になるのではないかと考えました。
 第一部で「抗いと甘受の閾」の中で、抗うべき悪と甘受すべき悪を社会理論という展開しつつ、それぞれ自分自身の手で「悪」をどのように咀嚼すべきか考えさせられる。
 第一部までを読んで思うことは、ある政策を実現するために、その成果とともに「悪」を生み出していることだ。
 第二章は運の平等主義でおける災害被災において、限られたリソースの中で被災者を救うためにある状態は自分が選択した状況か否かによって保障される対象化か否かという事態を引き起こしてしまう。法律はある規定することで、そこからあぶれる人、あるいはその状況と自発的か非自発的によって、救済の対象が変わる。こうした問題は、多くの人を救済すべきであると同時にある規定することで、規定から外れた人が発生する問題が出てくる。あらためて、平等の議論から「責任」と「範囲」について、福祉国家の問題や教育の問題、自己の行為についてなど私の関心領域にとって大いに参考にできるものであった。
 第三章、第四章はパターナリズムがもたらす権威性あるいは人々を合理的に導く手段として、それが許されるのか,否かを考えさせられる。現状維持を肯定する思考する者や権威に従い生きる者に対して、社会の変化を求めること、人々を合理的に導くことなどのパターナリズムによる誘導性について、自分はどう向き合うべきなのか。私はその見解は示すことができないが、刺激的な社会科学の問題提起であった。
 第二部「共生の身悶え」は社会の中に存在する人々と「悪」の関係を考察する。偶然にも教育に関わる分野、その民主主義へ人々がコミットしていくために必要なことを説いている。第五章では、個々人の保守/革新という政治的志向性の身体的かつ生得規定性と深く結びつき、そうした生得的な認識は「すべりやすい坂」として差別に転じる一方、「遺伝子文化共進化の観点からすればそれぞれ保革性向を背負って道徳的ミームを生成転生させるエージェントの人であって、道徳をめぐるミーム・プールの中でヘゲモニーを獲得ができるか問われる」(p266)とあるように、その人の遺伝的に持っている政治志向とそれを変容するための文化的試みと彼らをどう頭の中で受け入れられるかが求められていると感じた。
 第七章は、諏訪の実践を通して、教師の責任倫理は生徒自治における生徒自身の自尊心や友情や団結力を挑発し問い、「生徒が決めたこと」を生徒自身であることを先生が生徒に挑発し、生徒自身に奮起を促すことである。生徒自治という目的において許される試みが、「生徒自治」による生徒同士が異なる能力をさらすことで「スクールカースト」が生まれ、そのカースト問題を生徒の手(個人の努力)に委ねることになってしまい、こうした教師の責任倫理の問題をどう考えるべきか問われている。
 第八章は学校教育を通して、異邦人としての子どもたちを、民主主義の主体的主人とするための試みをこそ、悪を歓待することであり、それを社会の可能性と複数性を擁護することについて論じている。
 神代は、教育という営みは、そもそも道徳的な善悪の区別とはいくぶんズレたところで成立する技術の集積ということを示し(p394)、主体性を育てるために能力の差異の中で、競争や協議によって共同体の主人になるための育成することである。ある意味、進歩系、人権派が好まない手法だとしても、その手法自体が民主主義社会の一員として自覚させるプロセスだと感じた。
 第六章では、現代社会において「人格」は「神聖なもの」とみなす社会である。人々は「自分がいかに生きるのか」を考え、日常生活の体験を通して「理想の自己像」を絶えず変化し、「公共的に生きていくための術」を自分なりに「道筋」を探りながら解釈する。その中で「他者」は『自分の「理想」を「理想」として維持しながら、決して全てを約束してくれているわけではない存在』(p309)であり、他者とのコミュニケーションで自己愛を支えてくれる存在である。
 「悪」との共生していくため、人々は生まれながらにして政治志向が継承される環境の状況下の中で、「他者」とのコミュニケーションによって自分がいかにして生きることができるのかを思考しつつ、学校教育を通して他者との差異に触れ、教師の教育実践によって、民主主義社会に参加する主体的な人格を形成することとなり、異なる人との共生する作法を身につけるものとこの第二部を通して、私が読み取ったことである。
 この書は、それぞれが章ごとの個性が強く、宮台門下生たちが各々、専門とする語り口で読み応えがある。その中でも、共生できる「悪」とは何か、「悪」と共生するためにはどのような作法が必要なのかについて、変わった切り口で社会学論文の新しい一面を知ることができる。
 「悪」と共生できる社会は人類永遠の課題である。現代社会は高度情報化によって、「悪」との共生の負の機能が顕在化され、統計情報によって社会の最大大数が可視化される状況で、「悪」とは「何か」が高速度で変化し、共生できる社会を如何にして実現するための「感情への設計」は複雑なものになっている。
 例えば、フランスでは政教分離立憲主義のもとで、学校、一般道路など公共の場でブルカの着用を全面的に禁止する問題について、立憲主義を守るために宗教的要素を排除するは許されるべきか。あるいは信教・表現の自由は個々人の「生き方」に結びつく社会の中で、教育を通して「公的なもの」にコミットするために宗教教義と深く結びつく「生き方」の切り離しを行うのか、その「生き方」と共生を目指すのか。そもそも政教分離と信教の自由は過去の宗教戦争をきっかけに、国家の世俗化という人類が積み重ねてきた歴史その国家の中で継承される考え方を脳が許容できるのか。
 個別的ケースが無数に顕在化され、現実社会の中で「悪」と何か、いかにして共生できるのか、感情の陶冶する制度設計は可能か、その制度のパターナリズム性とどのように向き合うべきか、次々と問いかけられる。その問いは、「悪という希望」で学んだことをより深化させ、生と反を止揚させ新たな社会学理論の発展をさせる努力を行い、私も「悪」と共生できるように、精進していくための参考書にしたい。

悪という希望――「生そのもの」のための政治社会学 | 堀内進之介, 宮台真司, 現代位相研究所, 神代 健彦, 山本 宏樹, 髙宮 正貴, 鈴木 弘輝, 保田 幸子, 濱沖 敢太郎, 石山 将仁 |本 | 通販 | Amazon