スグルのメモ帳(私って何―自己と社会を知りたい―)

自分の知識を使いコラムを通して、自分と社会を知っていくためのメモ帳です。

自己紹介記事(宮崎哲弥編)

前回のつづき

評論家の宮崎哲弥さんは、政治哲学(マイケルサンデル)・宗教(仏教)・サブカルチャー(グルメマンガやSF、小松左京)、犯罪研究(刑法39条、少年犯罪)、時事問題(政治・経済・憲法)、書評を多岐にわたり分筆活動、テレビラジオのコメンテーター活動を行ってきた。
私がこのような社会評論をやりたいという思ったのは、宮崎哲弥さんの真似事をしたいからである。
宮崎哲弥は、同年に出版された『見捨てつるほどの祖国はありや』はアクチュアルな時事を状況整理して論考を行い、『自分たちの終わり』は「ソフト・アカデミズム」として原理的な論考を行い、私は専門分野とする社会哲学と社会学の原理に加えた時事評論を行いたいと学生時代に行い、2015年10月からブログ*1をはじめ、その準備と練習を行ってきた。
社会人になって、本を読む時間、文章を書く体力がなく、ブログも更新を途絶えていたが、つい最近色んなことをきっかけにして、自分の論じたい分野の本を読んで、ワードでまとめる作業を行い、そして最近再び、ブログを書き始めたことができた。
いつまで、続けることができるか、不透明であるが、何か本を読んで、それに関する文章はワードにまとめて、その勉強したものが旬の時事であるときに、記事化して公開出来たらよいと思っている。

私は、前回の宮台真司さんと宮崎哲弥さんのコンビ、M2が好きである。
私の評論の題材は、M2が評論してきた内容(90年代から2000年代の社会問題)を、この2020年を生きる私が再び、自分の言葉や価値観で論じなおすことにあると言っていいだろう。

宮崎哲弥さんの論考で、一番凄みを感じたのは、1996年の『正義の見方』で論じた「夫婦別姓反対論」である。
宮崎哲弥*2は、夫婦別姓を別姓制度を導入することで家族が崩壊する保守的な理由でなく、むしろ実家の性に夫婦が依存する生家主義を強固にすることを批判する。仮に、夫婦の姓の平等を主張するならば、結合性(結婚時。互いの名字をつなげる)、新性創成(結婚時、互いの名字を捨てて、新しい名字をなるようにすること)を導入しなければ、本当の意味で男女平等にならず生家主義を脱すことができないと論じた。

夫婦別姓にしたい人は、自分が結婚しなければ、その生家の性を途切れることを恐れる、生家と性が個々人のアイデンティティに依拠するになる。
本来家族主義を批判しなければいけないはずのジェンダーフェミニズムリベラリスト夫婦別姓に個人の選択の自由を理由に、生家への性にアイデンティティを見出すことに危機を覚えていない。

こうした宮崎哲弥さんが1995年ごろに書いた論考を読み、私は、フェミニズムは結局、セックスからも、ジェンダーからも、生家主義からも、資本主義からも、何もかも自由になれず、アイデンティティを何かに依拠して現体制を維持しつづけているという評価をしてしまう

私自身も、都留大学院時代のジェンダーと労働、ジェンダーと企業経営などのゼミ、文大の講義内容を通して、父権主義・権威主義保守主義などの考えにならず、女性の人権と男女平等を目指すことに賛同している。だが、ジェンダー学やフェミニズムは、セックスやジェンダーから自由になれず生家主義や資本主義の現行体制批判の詰めの甘さを見ると、ジェンダー学やフェミニズムに冷めた視線を向けてしまうことがある。

話は戻り、私は、宮崎哲弥さんの物事を俯瞰しつつ、社会科学の知識を活かして、評論していくスタイルに憧れを持っている。このブログでは、社会時評の時に、宮崎さんのような評論を書けるように精進していきたいと思っている。
宮崎哲弥さんは時事評論の舞台から仏教やサブカルといった宮崎が本来論じたい分野に移行しつつある。宮崎さんは時事評論家はだんだん撤退しつつある。私の願わくは何かの機会に宮崎さんと時事評論の対談してみたかったなと思い、この文章を締めたい。。

*1:過去の記事は消去してデータはありません

*2:宮崎哲弥さんの本名は、結婚した時に結婚相手の性である。