スグルのメモ帳(私って何―自己と社会を知りたい―)

自分の知識を使いコラムを通して、自分と社会を知っていくためのメモ帳です。

教員の労働改善と子どもの福祉

教員の労働改善と子どもの福祉

 

教員の本務は教えること、知識の伝達にあるのはそうであるが、部活動や保健については子どもの福祉と切っては切り離せず、子どもが学業不振でも学校からの離脱を防いできた面は否定できないから教員の業務拡大と子どもの福祉をどうしていくのかは課題だと思う。

近年、教員の過剰労働について改善を求める動きはあり、それについては賛同する一方で、授業以外の業務についてドライなのが気になる。

部活動の地域クラブ以降は教員の負担もそうであるし、部活動内の秩序が学校内に持ち越されるため、クラス内や学年内の人間関係に影響を与えるため、部活動を学校から切り離すことに賛成ではある。

ただ、今のまま地域移行が進めば、地域や保護者の資源格差によって文化活動やスポーツ活動を享受できる生徒とできない生徒が生まれること、文化活動やスポーツ活動が市場の論理に左右されやすくなることについて関心を払っていないのは気になる。

教育学的に教育を市場の原理によって、教育を受ける機会の平等やサービスの均質性を左右されることを新自由主義ということで批判してきたが、今の地域移行は新自由主義の論理にさらされてしまい、教育を受ける機会の平等なサービスの均質性を揺るがしかねないことについてどう考えているのでいるのか。

新自由主義の論理に原理的に反対しているのか、それともケースごとに使い分けているのか。

いずれにしろ今までの教育学の市場の論理新自由主義批判言説と教員たちが求めている労働改善の案についてのどう考えているのだろうか。

教員の仕事をむやみに拡大し、アンペイドワーク、無償や低賃金で任せてはいけないし、教育を家庭の責任、地域の責任の連携で子供の福祉を実現していくのかは大事なことである。

ただ今の教員側からの労働改善案や教えることを本職としてその他業務を委託すれば良いという考え方に子どもの福祉を軽視しているのではないかという若干懸念と教育学の新自由主義批判との違いがあるため、それらについてどう考えて折り合いをつけていくことができるのか。

私にはその問いに対する解は持ち合わせていが、その関心を持って見守っていきたい。

文系/理系に関する雑感②ー過剰な理系に対する期待

過剰な理系に対する期待

理系に対して、論理的であるとか、数字に強いとか、科学リテラシーがあるとかのイメージを持っているが果たしてどうだろうか。
私は底辺高校の特別進学クラスでは授業は別々だったが文系組と理系組は一緒のクラスメイトだった。その時の実感として、少なくても理系組が理科や数学に強いという印象はなかった。一部の文系組でも数学ⅡBを履修者は理系組と同じ授業を受けたが、理系組が成績の上位を占めることはなく、あまり理系に対して世間から思われるイメージを私自身感じなかった。

正直、高校の文系組と理系組を分けたところで思考に大きな差がつくとも考えがたいし、理数科目で適性がないためか赤点ギリギリな人もいて、理系組を選ぶことが必ずしも論理的でもなければ、数字に強いわければ、科学リテラシーがあるとは限らないと当時の高校時代に感じた。

実際に身近な文系と理系とコミュニケーションをしていて、文理の差異を感じることができるのであろうか。
正直、友達もおらず、底辺高校なので文系と理系の差異をあまり感じることができなかった私が特殊なのか。それとも誰しも文系と理系の差異が分かるものなのか。

ネット上では理系に対してステレオタイプ的なイメージ(論理的、数字に強い、科学リテラシーがあるなど)を持たれていて、そのイメージがインフレして過剰な期待やレッテルを貼られていることについて、理系の当事者が何を思っているのだろうか。

文系/理系に関する雑感①私が文系を選んだ理由

文系と理系に関して、私が思うことについていくつかのコラムを書いていきたいと思う。
自分の考え方を整理する殴り書きであると同時に何か反応をもらい、自分の認識を深めたいと思う。
ただ漠然におもったことを書くため、参考文献はない、個人的な主観と経験に基づくコラムであるが生暖かく読んでください。

私が文系を選んだ理由

私が文系を選んだ理由は物理・化学が脳内機構で理解できなかったこと、機械による怪我が怖いためそうした仕事をしたくないため文系を選んだ。
私は脳内で人の話を上手く理解できていないこともあり、中学時代から物理と化学が脳内で理解できないこともあり苦手意識を抱えていた。高校時代に当時は理科総合Aで物理・化学分野に関する授業があったが、点数は取れたがそれが自分の中で分かっているか不安があり、この先、物理・化学が難易度が上がるため、自力で物理や化学に取り組むことが困難だと判断して文系を選んだ。
また私は小学生の頃から図工の時間でノコギリ、家庭科で包丁を使うことに恐怖心があったため、できる限りこうしたものを使わない仕事をしたいと思い、文系の方を選択しました。
こうした自分のマイナス特性から文系を選びました。

もちろん授業で古文が面白かったこと、社会科特に公民分野が好きだったので、自分の得意な事を活かせると思い文系を選びましたが、文理を決めた決定的要因は自分のマイナスな特性によるものです。
実際に大学は社会学科、修士課程まで行きましたし、今も刃物類が怖くってそのような仕事に就きたくない。

文系を選んだ理由として良く上げられるのが、数学ができない、理科が苦手というのはありますが、私のように自分のマイナス要素や発達的な要素を理由にした文理選択している人はいないのだろうか。

我が家のフェレットに「ありがとう」

私の家族の一人である、ペットのフェレットが星になりました。
その時まで、一生懸命に生きていて、その姿に胸を打たれました。




フェレットは弟がお出迎えしたものである。
最初は、フェレットに馴染めなかった。
弟が社会人になって、仕事の時は家を空けるので、私がフェレットのお世話をしていた。
最初は、フェレットの世話に戸惑いがありましたが、お世話するなかでフェレットが可愛いと思い、世話も楽しいと思うようになりました。
弟が社会人になったころ、精神的な理由で働くことができず、家に籠もっていた時期に、フェレットのお世話をすることになった。
フェレットのお世話することで、家で自分の役割ができて、精神がとても安定していた。
もっと優しく、きちんとお世話していたら良かったなという後悔はありますが、引きニート時期にフェレットの世話することで、私自身が楽しく過ごすことができたので、本当に感謝している。
死期は辛いかったですが、短い期間ですが、私自身はフェレットに癒やされて、楽しく過ごすことができたよ。
我が家に来てくれて「ありがとう」、そして「安らかにお眠りなってね」、60年後にそのフェレット遊びたいなという思いながら、今は必死に生きていくよ。頑張るよ。

はてなスターに関する雑感

はてなブログ、ブログの書式機能はとても有能だがはてなスターについてもやもやしてしまう。

 

はてなスターは1人で何回もつけることができて、私も記事を読んで良い記事の場合、2〜3個つけてしまうが、とある記事で70個以上はてなスターがついた。

 

正直、これが嬉しくない。これが自分の記事が本当に評価されたのかが分からないのだ。正直にいうと一人で大量のはてなスターが付けられているのを見て、引いてしまった。正直モヤモヤしているが、このスターがはてなの中でアクティビティが上昇して、見てくれる人が増えてくればありがたいがそうはいかないだろう。私は今回のことを通して、スキ、いいね、高評価などを押すとき、きちんと吟味して、評価している部分を考えながら行っているいきたい。そしてきちんと評価している部分を考えることは相手へのリスペクトすることになると考えました。

 

1人の人に大量に評価されるだけでは良いこととは限らないし、多くの人々の評価の数、コメント、叱咤激励などの質こそが大切であり、それが自分を成長させる貴重な存在であることを忘れてはいけないと感じました。